第346号 ルター小教理問答書のすすめ〜④使徒信条
「ですから、私はあなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者は誰でも、「イエスはのろわれよ」と言わず、また、聖霊によるのでなければ、誰も「イエスは主です」と言うことはできません。」(第一コリント12章3節)
今回は、ルターの小教理問答書のなかの、使徒信条についてです。使徒信条は、神様の創造、イエス・キリストの救い、聖霊による聖化についての、簡潔な信仰告白です。私達は、それを暗唱できるように導かれていることは素晴らしいことです。けれども、ただ唱えるだけになりやすいのも事実です。それはこの信仰告白に告白されている、父子聖霊の神様の、私達にしてくださった壮大な恵みを忘れやすいからであるともいえるでしょう。そして時に、何か特別な集会、礼拝で真っ先に外されるのも、この使徒信条であったりもします。けれども、私達は信仰の告白によってバプテスマを受け、その信仰告白のゆえに、日々バプテスマにも生きているわけですし、信仰告白のゆえに、教会もあり、礼拝にも集う(集められる)わけですから、そして、ただの仲良し組とか気が合うとかの感情ではなく、「何を信じ告白するか」の、信仰告白にこそ、教会の一致もあるわけですから、私たちの信仰告白は、欠くことのできないものでもありますし、毎聖日、いや、毎日、主の祈りとともに、心から口にしたいものでもあるでしょう。
その使徒信条の伝えることは、十戒とはことなります。十戒は、私達がすべき、すべきではない神様の御心を伝えていました。そして、私達はそれを決して完全に守ることができないものであるということも伝えています。使徒信条は「すべきこと」ではなく、「できない」、だから、主が私達のためになしてくださった「救い」と恵みにほかなりません。そして、特徴的なのは、それは、人間の圧倒的な無力と同時に主の圧倒的な完全さ、そして、聖霊の働きと豊かさにほかなりません。大教理問答書でルターはこのように説明しています。
「〜使徒信条が十戒とはまったく別の教えであることがわかる。十戒は私達が何をなすべきかを教えるが、使徒信条は、神が私達に何をなし、何を与えたもうかを述べているからである。十戒はもともと全ての人間の心に記されているものであるが、使徒信条は、いかなる人間の思慮をもってしても理解することはできず、ただただ、聖霊によって教えられるほかないものである。」(p137、大教理問答書、マルチン・ルター、福山四郎訳、ルター分冊、聖文舎、S49第二版)
使徒信条は、聖書が教えること、私達が聖書から信じることの簡潔な宣言であり、世界のキリスト教会で信仰告白とされているものです。ルターが特別にこだわっているのは、使徒信条は、創造主なる父なる神と、購い主なるイエス・キリストを伝えるが、私達は聖霊の働きなしには、決して自らでは父なる神も、イエス・キリストも告白することができない、ということです。ですから、小教理問答書の使徒信条の中の、第三条「聖化について」のところで、とても注目すべき回答をルターはしています。
「自分の理性や能力によっては、私の主イエス・キリストを信じることも、みもとに来ることもできないことを、わたしは信じます。〜」(p10、小教理問答書、マルティン・ルター、非売品、西日本福音ルーテル教会)
“I believe that I cannot believe”というのです。つまり「私は私が(自らでは)信じることができないことを信じます」という告白をするのです。パウロはこういいました。「私は自分でしたいと思う善を行わないで、かえってしたくない悪を行っています」と(ローマ7章19節)。まさに “I believe that I cannot believe” です。そして、そこにはまさに私達が告白する「聖霊を信じます」があるからです。こう続いています。
「けれども、聖霊は、福音をとおして私を召し、その賜物をもって私を照らし、まことの信仰のうちにきよめ、支えてくださいました。それは聖霊が、この地上の全キリスト教会を召し集め、照らし、きよめ、そして、イエス・キリストにある、まことの一つの信仰のうちに支えられるとおりです。聖霊はこのキリスト教会において私と全ての信仰者に、日ごとにすべての罪を豊かにゆるし、そして終わりの日に、私とすべての死者をよみがえらせ、私に、キリストを信じるすべての者とともに、永遠の生命を与えてくださいます。これは確かにまことです。」(同上)
父なる神の愛を知り、イエス・キリストの贖罪の恵みを知り信仰を告白し、クリスチャンであるのは、私達には決してできません。聖化も私達にはできません。「私は私ができないことを信じます」と告白する教会なのです。それらはすべて聖霊によるのです。これが聖霊の豊かさです。私が感じる魅力や、心地よさを、祈りの熱心さや、賛美の熱心さ情熱で、自分を覚醒させて、その高揚感で、何か満たされているかのような感情、”I feel~”は、決して聖霊の豊かさではないのです。自分では決してできない、人の何かには決してよらない、み言葉と聖霊によってこそ与えられる、創造主なる神の愛、神への恐れ、そして、イエス・キリストの贖罪の恵み、人間には計りきれない、聖霊がしてくださる完全な聖化を信じる告白、そしてそこにある告白の歩みこそが、聖霊の豊さにほかならないのです。そして、その聖霊はみ言葉をとおしてイエス・キリストを示し、イエス・キリストの罪の赦しと永遠のいのちを「与える」ことによって、その働きをなしてくださり、私達は、その聖霊によって導かれた、日々の罪の赦しと永遠のいのちの確信に生きることにこそ、聖霊の豊かさがあるのです。 それは、“I believe that I cannot believe”、「私は私が(自らでは)信じることができないことを信じます」という告白によってこそです。それは「私が」「私の」が先にも中心にも来ない信仰です。ベイヤーという現代のルター派神学者は、それは、アンセルムスの「知解を求める信仰」ではないとしました。それでは「『私』の知解」「『私の』信仰」と自分を世界の中心においてしまうとしました。また、ウェンゲルトも「『私が』イエスに従うことを『決意する』」という信仰は勝利主義的な人間中心主義に基づいているとして否定し、人間の無力さに、み言葉と聖礼典を通して聖霊が働き信仰があることを教えています。
私達は自らでは主を信じることができません。信仰はみ言葉と聖礼典を通しての聖霊による全くの恵みです。そのことをルターの小教理問答書は教えるのです。
参考図書:
マルティン・ルター大教理問答書:福山四郎訳、ルター分冊。聖文舎。昭和49年第二版
同小教理問答書:西日本福音ルーテル教会、非売品、2003
Martin Luther’s Catechisms,p43-47, Timothy J.Wengert, Fortress Press, 2009