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2011年10月16日

第347号 シュメールの学校生活

執筆:新宮昇長老

日吉教会では毎週9時から、主に中学生を対象としたジュニア礼拝という礼拝を行なっています。

以前は玉川聖学院の中等部の生徒さんを対象とした「中学生会」という名称で行なっていました。私がその「中学生会」で奉仕し始めたのは今から25年も前のことです。当時は場所もなく、伊藤先生が教会の入り口前の通路で中学生たちに語っておられた姿を覚えています。お手伝いのつもりで始めたものがこんなに永くなるとは思いませんでした。

昨今、どこの教会でも子どもたちが少なくなっていることが問題とされていますが、日吉教会においても数年前から教会学校に来る子どもたちがほとんどいなくなってしまい、中学生会を「ジュニア礼拝」として中学生を中心に誰でも出席できる礼拝としたのが、2年半ほど前の2009年3月です。

今は、玉川聖学院の中学生が10名程と牧師先生の子どもたち、教会員のお子さんたちがレギュラーとして出席してくれています。その他に、玉川聖学院の今年高等部に進んだ高校生たち、星の子ルームのお子さんたちなどが出席してくれています。

ジュニア礼拝の説明になってしまいましたが、もちろん大人の方も大歓迎ですので、いつもよりちょっと早く家を出て、ジュニア礼拝と10時30分からの礼拝にダブル出席してみてはいかがでしょうか?

さて、そのジュニア礼拝では10月から「族長たちの時代」がテーマになっています。

10月2日は「アブラハムの旅立ち」というタイトルで聖書のお話しをしました。アブラハムは生まれ故郷ウルを離れ、カランから約束の地カナンを目指します。

その後、主はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。」(創世記12章1、2節)

アブラハムの故郷ウルは、4大文明のひとつであるメソポタミヤ文明の中心を担ったシュメール人の町と言われています。アブラハム一族も最初はこのような文明と関わって生活していたのではないでしょうか。

「信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました。」

とヘブル11章8節にアブラハムの神に対する信仰の真実さ、純粋さが示されているエピソードとして語られています。

私は、アブラハムが一族を率いて去って行ったウルやカランという都市がどのような都市だったのか興味があって、「シュメルー人類最古の文明(小林登志子著中公新書)」を読んでみました。

驚くことに、人類史上最初に文字(楔形文字)を作り、学校で文字を教え、図書館を建て、今の日本と同じように契約などには印鑑を用いていたということが書かれています。文字は粘土板に葦の枝で作ったペンを押しあてて直線や△、◯などの形を組み合わせ表記しています。

紙に書かれたものなら、4000年以上も前のものは、朽ち果ててしまうでしょう。しかし、シュメール人たちの残したものは、粘土板でしたので、4000年以上も経た私たちの時代にたくさんのメッセージを残してくれているのです。

そんな、シュメールの古文書の中に、今の私たちの生活にも通じる面白い文章がありましたので消化しましょう。「学校時代」というシュメール文字を学校に習いに行っている生徒のお話です。

「学校時代」 シュメール人作

「生徒よ、君はずいぶん前からどこへ行っているのですか」
「ぼくは学校へ通っています」
「君は学校でなにをしているのですか」
「ぼくは粘土板を大声で読み、お弁当を食べました。ぼくは新しい粘土板を作り、習字を書き終えました。学校が終わった後で、ぼくが帰宅すると、お父さんが座っていました。

ぼくはお父さんに今日習ったことを諳誦し、ぼくの粘土板を大声で読みました。お父さんは喜んでくれました。ぼくはお父さんの前に立ち、「のどが渇きました、水を下さい。おなかがすきました、パンを下さい。ぼくの足を洗って下さい、ベッドを出して下さい、ぼくは寝たいのです。朝にはぼくを(早く)起こして下さい、遅刻できないのです、先生に鞭で叩かれます」(といいました。)

朝起きるとぼくはお母さんの前に行き、「ぼくのお弁当を下さい、ぼくは学校へ行きます」といいました。お母さんが二枚のパンをぼくに下さったので、ぼくはお母さんにあいさつをします。(中略)

ぼくは(校舎へ)入って座り、そしてぼくの先生はぼくの粘土板を読みました。先生は「間違っている」といいました。そして先生はぼくを鞭で叩きました。(中略)

シュメール人語の先生は「なぜ君はアッカド語をしゃべるのか」といいました。そして先生はぼくを鞭で叩きました。ぼくの先生は「君の文字は下手だ」といいました。そして先生はぼくを鞭で叩きました」(後略)

この生徒は誤字を叱られ、シュメール語の発音が悪くアッカド語を話しているようだと叱られ、そのつど鞭で叩かれました。さらに、この後も生徒は許可なくしゃべったといっては鞭で叩かれ、校舎を出たといっては鞭で叩かれ、とにかく散々な一日でありました。

そこで生徒は自分の父親に先生をお招きして、もてなしてほしいと頼みます。父は先生を家に招き、なつめやし酒を飲ませ、食事を出し、さらに新しい衣服などを贈って先生をもてなしました。もてなされた先生は手のひらを返したように、この生徒をほめるのです。
 

なんともはや、4000年も前のお話とは思えない、私たちの身の回りにもありそうなお話ではありませんか。叱られたといって、先生をもてなしてほしいと父に頼む生徒も生徒なら、息子可愛さに先生を招待した親ばかの父も父、もてなされたことによって態度をころりと変える先生も先生と、三人が三人ともあまり立派とは言えませんがいつの世も人間の本質はあまり変わらないなあと思わされます。
鞭で叩かれる生徒に同情するものの、滑稽さと親しみを感じて笑ってしまいます。

恐らくアブラハムは、このような世俗的な、多神教(実際、シュメールには今の日本のように多くの神々がいました。)の偶像崇拝の社会にいることに、唯一の真の神様から離れてしまうことの危険を感じ取り、真の神様の御心を求めて旅立ったでしょう。

21世紀に生きる私たちの文明はシュメールの文明とは比較にならないほど豊かになっていますが、豊かさに目を奪われ、人にとって本当に必要なものに目を向けることを忘れ、この世のものに心を奪われやすい社会になっているのではないでしょうか。

「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」(ルカ10:41、42)

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