第349号 ルター小教理問答書のすすめ〜⑥恵みの手段:洗礼
「そこでペテロは彼等に答えた。「悔い改めなさい。そして罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば賜物として聖霊を受けるでしょう。」(使徒の働き2章38節)
皆さんは「洗礼の恵み」を覚えているでしょうか?「洗礼の『日』」ではありません。「洗礼の恵み」です。洗礼の「日」であるなら、私の場合、日にちはわかりますが、その日のことはまるでわからない。それはわたしはまだ0歳。赤ちゃんであったからです。牧師先生の顔も、母親の顔も、周りの人々や教会のようすも、その後にあったであろうお祝いも、私は覚えてはいません。大事なことは、「洗礼の日」とか、誰に洗礼を授けてもらったとか、そのようなことでありません。「洗礼の恵み」を日々覚えて、立ち返り、生かされることにあります。その恵みとは?
1) 洗礼はキリストの洗礼であり、キリストのわざです。神のことば、命令、宣言があってこそ、その『水』は洗礼となります。ゆえに神のことばこそ洗礼にとっては必要不可欠です。神と神のことばこと、洗礼の実行者です。み言葉がそこにあるなら、どの牧師がやっても同じであり、み言葉があるなら、どんな牧師によってなされても(緊急のばあいは、どのキリスト者によってなされても)、それはキリストがなしたものであり同じ恵みです。「〜先生から授けられた」は重要なことではありません。洗礼の恵み。そこにある救いは、いかなる人のわざをはるかに超えたものです。父子聖霊のみわざであり、私達は御子キリストにより、み言葉とそれが結びついた水を通して、主の洗礼に与って救い、罪の赦し、聖霊、新しいいのちを受けたのです。
2)洗礼は点ではありません。それは線です。私達は今、洗礼の恵みの中に生かされ生きています。ですから洗礼はゴールではありません。洗礼は新しいいのちの誕生、歩みの始まりです。洗礼によって、日々私達はキリストに死に、キリストに生かされます。日々、キリストの恵みを受けることができます。キリストは洗礼を通して、罪、死、悪の力から私達を救ってくださいました。私達の日々の歩みは、常に、罪、死、悪の力との戦いであり、サタンの誘惑は常に私達にある。しかし、十字架と復活のキリストは罪、死、悪の力から打ち勝ちました。洗礼はその恵みを与え、そのキリストの恵みに日々生かし続けます。私達は日々、そのキリストの十字架と復活に生きて行くのです。
「バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです。」(ガラテヤ3:27)
3)洗礼は私達を父子聖霊にあって、新しく生まれた神の子供としてくださいました(ヨハネ1:12、ガラテヤ3:26)。そこには男も女も、年齢の差も、上下関係も、地位も立場も階級もありません(ガラテヤ3:28)。私達はみな新しく生まれた「神の『子供』」です。大人ではありません。いつでも、いつまでも「子供」です。それは私達いつでも、幼い、無力で、弱く、迷いやすい神の子供、幼子であるということです。ですから、他の子より、より大人であるとか、上だとか下だとか、長いとか短いとか、深いとか浅いとか、偉いとか生意気だとか、それはナンセンスであり、むしろ神の前に高慢です。私達はどこまでも神の前に等しい、神の子供、幼子です。神に頼らなければ、求めなければ生きて行けない、「アバ、父よ!」(おとうさん!)とすがらなければ、闇の中にさまよい出てしまう罪人です。幼子も、大人も、洗礼によって神の子供です。
4)洗礼は、死から生です。洗礼は、十字架と復活の救いの恵みに与ることです。水に溺れ死に(十字架)、水からあげられて新しく生きる(復活)のです。私達は洗礼においてキリストとともに十字架で死んで、キリストとともに復活し新しく生かされているものです。
「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」(ガラテヤ2:20)
洗礼はこの十字架と復活による救いの恵みを与える手段です。私達はこの手段によって『事実』その恵みを受けています。洗礼は罪の死と恵みのいのちの比喩でも象徴でもありません。私達は事実受ける、あるいは受けたのです。私達は日々、このキリストにあって生かされています。洗礼はその歩みが始まった原点。日々、その洗礼の恵みに立ち返り、覚え、信仰の告白をもって生きるものです。日も年も過ぎ去り、木々や草花は枯れ、また芽生えては消えて行く。人の歩みもその中で過ぎていき、良いことも悪いことも一時の影のようです。しかし永遠に変わらないこの恵みと真理、道でありいのちである方を見上げつつ、洗礼の恵みに立ち返り、日々イエス・キリストの十字架に死に、生かされながら、罪の赦しと永遠のいのちの確信にあって、歩み続けていきましょう。
(参考図書:pp167~169, ”That Is May Be His Own ~An overview of Luther’s Catechism”, by Dr, Charles P. Arand, Concordia Publishing House, 2000, St.Louis)