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2011年12月25日

ことばは私たちの間に

ヨハネによる福音書1章14〜18節

説教者:田口聖牧師

1、「ことばは、人となって、私たちの間に住まわれた」(14節のはじめ)

聖書はここで私達に素晴らしい事実を伝える。救い主は「私達の間に」来られたと。この「住まわれた」という言葉は「幕屋をはる」「幕屋に住む」を意味する。旧約聖書で、イスラエルは、エジプトから出て約束の地へ向けて旅をするとき、彼等は旅をしながら幕屋をはり、その幕屋を「神のおられる聖なる所」とした。聖なるところゆえに、祭司以外の人々は入ることができないし、誰も神を見ることも触ることもできなかった。神が聖であり義であったから。14節では「ことばは」ともあるが、その「ことば」は神の天地創造のことばでもあり、契約のことば(十戒)でもある。その「契約のことば」も、聖なるものであり、祭司はもちろん誰も軽々しく、触れることができなかった。第二サムエル記6章で、ダビデは奪われたその契約の箱を、少しでも早くエルサレムの神殿に戻そうとして、契約の箱を車に乗せて牛に引かせて運び入れようとしたが、その車が倒れそうになった時に、一人の人が手で契約の箱を抑えたときに、手で契約の箱に触ったために、その人は神の怒りを受けた。それは神も神のことばも聖であり、義であり、私達は罪人であり、不義であるから。そのように「神」と「私たち」は、余りにも対称的で、その間にはあまりにも大きな隔たりがある。聖なる神、そして、罪人である私達。そのような関係が「幕屋」とか、契約の「ことば」には、わかる。けれども、この14節のことばは何を伝えているか?そのような神である方、ことばである方が、世に来られた。ただそれだけではない。「私達の間に」である。「私達の間に」来られ、住まわれたとある。そしてそれは、まさに「罪人の間に」、「聖ではない、罪人である、私達一人一人の間に」、産まれ、住まわれた、ということ。罪ゆえに幕屋に近づけないようなものの、その間に、その身体に、なんと、聖なる方が、来てくださって幕屋を張ってくださった。そのことが伝えられている。イエスは、赤ちゃんとして生まれた。しかしそれは神の御子だからと、特別な身体ではない。神である方が、聖なる方が、母マリヤの胎のなかに宿り、マリヤの血と栄養を受け、そして、マリヤの産みの苦しみだけではない。生まれる時、赤ちゃんも、苦しんで、がんばって生まれてくるだろう。イエスはそのように、私達と同じように、肉の身体、肉に痛みを持って生まれて来たことが書かれている。まさに「私たちの間に住んでくださった」が示すこと。それはまさに私達と同じ身体、肉体に、その「聖なる幕屋を」張ってくださったということではないだろうか。誰も触れることができなかった。見ることもできなかった。私達の不義と罪のゆえに、神は、それほどまでに遠かった存在。隔たれた存在。しかしその聖なる方が、その「私達の間に」「罪人の間に」来られた。住まわれた。人となられた。罪人と同じようになられた。これがクリスマスの意味であり、「神が私たちになさったこと」である。イエスが産まれる遥か前に、ダビデはその神の私たちへの思いを、このような詩篇を作り歌った。

「あなたの指のわざである天を見、あなたが整えられた月や星をみますのに、

人とは、何者なのでしょう。あなたがこれに心に留められるとは。人の子とは、何ものなのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。」詩篇8:3〜4

この詩篇は、全宇宙にまでも及ぶ、いやそれに比べることのできない、神の大きさ、聖さが歌われている。しかし私達は、その全宇宙に比べても、まして神からみるなら比べものにならないほどに実に小さな存在。しかもその小さな存在は、小さいだけでなく、神に背いた。まさに「人とは何ものなのでしょう」ではないだろうか?ーしかし、その余りにも大きな神が、小さな小さな私達に目を、心を留められた。顧みられた。ダビデはそのような神の、憐れみと恵みを歌っているのだが、実に、そのことばが、実現しているのをここで見せられているではないか?ー 聖なる方が、その「私達の間に」「罪人の間に」来られた。住まわれた。人となられた。罪人と同じようになられた。そのことを。この「私達の間に」は、その大いなる方が小さな者に、聖である方が、罪人に、小さな、罪深い私達一人一人に、心を留められた。顧みられた。神の私達への思いがあることをまず覚えたい。

 

2、「この方の栄光を見た」(14節後半〜15節)

イエスはただ来られただけではない。そして「神が来られた」というのは、決して裁くためでも、罰するためでもないことをもヨハネは伝える。

「私達はこの方の栄光を見た。父のみもとから来られた一人子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」(14節後半)

ヨハネは「この方の栄光を見た」と言う。その「栄光」というのは、神、救い主がおこなった救いの業のこと。イエスがこれらたのは、当然、ただ生まれるためだけにきたのではなく、何かをするために来られたのだが、それは何かというと「十字架」にかかって死ぬため、そして「よみがえるため」、そのためにこそイエスは来られ産まれた。15節では、バプテスマのヨハネが、この方、つまりイエスについて証言し叫んで言ったとある(15節)。バプテスマのヨハネも、このイエスこそ救い主と示すが、その彼が、他の所ではイエスを指差してこう言った。

「見よ、世の罪を取り除く神の子羊」(1章29節)

「子羊」は、罪の贖罪のために、身代わりとなる犠牲の動物のことを伝えているが、つまりバプテスマのヨハネはイエスを指差して、イエスこそ世の罪を取り除く生け贄となる方と、やはりイエスがかかる十字架のことを示したことがわかる。このように「この方の栄光」というのは、ただ「誕生」だけのことをいっているのではない。十字架である。使徒パウロも「キリストが人となられた」ことをこう記す。

「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないと考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。」(ピリピ2章6節〜8節)

神である方が、人となられた。そのあり方を捨てて。そして、卑しく貧しくなられた。イエスは卑しく貧しいところに生まれる。貧しい、臭い、不衛生な、家畜の休む家畜小屋。そしてその飼い葉桶に寝かせられる。しかしそれは決して運が悪かったとか、偶然、そのような悪い状況になってしまったということではない。まさにこのみ言葉が示しているように神は救い主を、卑しく貧しいところにこそ送ったとわかる。そしてイエス自身もやがて人々にこういう。「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人達のものだから」(マタイ5:3)と。それはご自身が「心の貧しいもの」のところにこそ来られ、救いと神の国を与えるという思いと約束があったから。ちなみに「心の貧しい者」とは、神の前に罪を認めさせれどうすることもできず苦しみ、神の前に降参し、ひれ伏し、神に憐れみを求めるしかない「心」、私たちの現実のこと。実にそのような私たちの「心の貧しさ」こそを、代わりに背負われたのがイエスにほかならない。ゆえにこのピリピ2章のことばは、その人となられ私達の間にこられたイエスの姿、目的が、はっきりと十字架の死にまでつながっていることまで伝えている。ゆえに「私達の間に」は、その聖なる方が、ただ来られただけでなく、なんと私達の貧しさ、不義、罪にまで触れて、それを「代わりに背負う」ということまでを目的とされ、それをしてくださったというところまでを意味して「私達の間に住まわれた」ということなのである。イエスは私達の間に来られ、住まわれた。それは私達の罪のため。しかしそのイエスがまさに罪を取り除く子羊となってくださったからこそ、イエスが私たちの罪を代わりに背負ってくださったからこそ、私達は神の前にあって、罪が赦された。ー 私達は、このクリスマスに、私達の間に住まわれ、私達のために十字架で私たちの重荷を全て背負われた死なれたイエスをはっきりと見上げよう。誰でも日々の歩みにおいて大きな重荷を負うだろう。しかしイエスが全てを代わりに背負ってくださる。誰でも罪に苦しむことがあるだろう。しかしイエスが代わりに背負ってくださった。これからも背負ってくださる。それゆえに私たちは罪赦され、救われた。その幸い、恵み、クリスマスの喜びを、ともに賛美しよう。

 

3、「恵みの上にさらに恵みをうけた」(16〜18節)

「私達はみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのです。」(16節)

「満ち満ちた豊かさの中から」そして「恵みの上にさらに恵みをうけた」ということば。このようにこの救い主には恵みが幾重にもあることがわかる。ここに「受けた」とあるが、しかし「神の恵み」というのは、終わることのない、永遠に続くもゆえに、その「イエスにあるいつまでも変わらない、満ち満ちた豊かさ、恵みの上にさらに恵み」をこれからずっと受け続けることをこの16節の言葉は私達に伝えている。なによりその恵みの上にさらなる恵みを永遠に与えるのはイエスの霊である「聖霊」である。洗礼を通して与えられる幾つもの恵みとして、この「聖霊」が与えられるということこそ素晴らしい恵みであり、私達の歩むときの助けにほかならない。イエスの約束はこうであった。

「わたしは父にお願いします。そうすれば父は一人の助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるからです。その方は真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。わたしはあなたがたを捨てて孤児にはしません。」(ヨハネ14章16〜18節初め)

ここには「あなたがたとともにおられる」「あなたがたの間に住み」とはっきりとある。この聖霊にあって、キリストは今も、これからも「私達の間に」であり、「私たちにまさに住んでいる」ことが書かれている。「クリスチャンになる」ということはどういうことだろう。それは、何か劇的に身体も生活も変わって、何もかも成功する、繁栄する、聖くなる、正しくなるということではない。それは恵みとして受ける洗礼の他は、私達の五感では何も分からない。私達はただ罪赦されたものであり、そして見えない聖霊をうけた。しかしその歩みは、尚も、罪の世に歩んで行く。そして私達はただキリストのゆえに、義、聖と「認められた」だけであり、尚も「聖徒であり同時に罪人」である。主イエスを救い主と信じて歩んで行くと言うことは、いつでもサタン、悪の誘惑の中にあって歩んで行くこと。イエスも世にあっては「あなたがたは世にあっては艱難があります」(ヨハネ16章33節)と伝えたし、ルカの6章では「人の子のために、人々があなたがたを憎むとき、除名し、はずかしめ、あなたがたの名をあしざまにけなす時、あなたがたは幸いです」(ルカ6章22節)とも言っている。決してバラ色の歩みではなく、むしろ、イエスが言われるように、私達は弱く罪深いのゆえに、試練や誘惑、苦しみ、悲しみ、失敗や挫折、色々あるだろう。しかしそのためにこそ、イエスは来て、十字架を背負ってよみがえっただけでなく、最後まで私たちに救いの人生を生きさせるためにも、私たちの間に住んでくださっているのである。聖霊はそのいつでもどんな時でもともにいてくださっている助け主である。信仰の歩み、どんなことを経験したとしても、どんなことからも、イエスが必ず助け、支えてくださる。それは、いつでも「私達の間に」「私達自身に」住んでくださることによって。そのイエスの霊、聖霊を、私達は洗礼を通して、受けているのである。イエスの名、「その名はインマヌエルと呼ばれる」とマタイの福音書1章23節にはある。そして、

「それは訳すと、「神はわたしたちとともにおられる」という意味である」

とある。イエスは、ともにおられる救い主。どんな時でも、これからどんなことがあっても、私達は、この私達とともにおられるイエスにあって、私達は決して失望することはない。むしろ、イエスにあっていつでも希望がある。

 

4、「おわりに」

「ことばは人となって私達の間に住まわれた」

救い主イエス・キリストが私達に与えてくださった恵みの上の更なる恵みを、聖書の約束から、ぜひ確信して、喜びと感謝を持ってこの日を祝おう。そして今この時から始まる、父と子と聖霊にある、新しい一日一日を歩んで行こう。

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