主によって遣わされている航海
使徒の働き27章9〜44節
1、「「世」という船にある「教会」「クリスチャン」」
パウロのローマへの航海。何人かの囚人と一緒に、船に乗せられ出発する。幾つもの港に寄港しながら進むが、しかし船は向かい風で進むのに苦労していた(4節)。途中で他の船にも乗り換えるが船の進みが遅く風が進むのを妨げた(7節)。パウロは季節がら、大きな嵐が起こって航海が危険になることを察知し(9節)注意を促す。
「皆さん、この航海では、きっと積荷や船体だけではなく、私たちの生命にも危害と大きな損失が及ぶと、わたしは考えます。」(10節)
やがて船は嵐に遭うだけでなくこのパウロが言った通りのことに遭う。パウロのこの「注意」にはただパウロの考えではないともにある主の導きがあったことだろう。だが、
「しかし百人隊長はパウロのことばよりも航海士や船長の方を信用した。」(11節)
百人隊長ユリアスにとって、航海がうまく行かない状況にあって、やはり、パウロのことばはただの「航海に無知な人間」の心配に思えただろう。ユリアスは、経験豊かな航海士や船長の方を信用してしまう。私たちもこの嵐の中を航海している「世」という船にある「教会」「クリスチャン」と例えることができる。つまり「大勢のクリスチャンでない人々と一緒の船上での旅」である。そしてその中では小さな存在。そのようなもの。その中で私たちもパウロのようなことを経験する。ともにある神のことばを伝えても、人々は「それが何になろうか、そんな馬鹿げたことを、信じられない」と答えることに私たちは直面する。そしてそのような私たちの伝える、信じがたいことばよりも、やはり、人間のその時、その時の、経験や、大多数が支持するような評価、価値観の方を信用して、判断して行く。さらに
「また、この港が冬を過ごすのに適していなかったので、大多数の者の意見は、ここを出帆して、できればなんとかして、南西と北西に面しているクレテの港ピニクスまで言って、そこで冬を過ごしたいということになった。」(12節)
とある。そこにあるのは人の「経験」だけでなく、利益、願望である。「なんとかこうしたい。こうであったらいい。」ー彼等の合理性と利益をまず第一に照らした結論であった。それらが人の判断の基準となる。そしてそのような人の知恵、判断から見るならば、私たちの知恵、私たちの神からのことばは、愚かで、馬鹿馬鹿しいように見えるもの。そして耳をかさないことも多い。しかしこれは世にあって、同じ船の上にあって、当然のことではないか。私たちはそのような航海にあるのである。世とは別の船に乗っているのではない。まさに「世」という名の船の上に、クリスチャンでない人、理解しない人、聖書は愚かだと言う大多数の人々と一緒に乗っているのである。そのような人々の中にあっては、十字架のことばは、まさに愚かに見えることだろう。しかし、私たちは、尚もその「彼等との」航海にある。嵐の航海にある。そして、その中でこそ、新しい年も、「尚も」、この十字架のことば、神の知恵、神のことば、神の救いを語り、伝えて行くためにこそ、召されている、遣わされている、そうではないだろうか。パウロは記す。
「キリストが私をお遣わしになったのは、バプテスマを授けさせるためではなく、福音を宣べ伝えさせるためです。それもキリストの十字架が空しくならないために、ことばの知恵によってはならないのです。十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであったも、救いを受ける私たちには、神の力です。」第一コリント1章17〜18節
先が見えない航海、嵐を迎えようとしている航海にある、この私たちの「世」という船。人々はますます、自分自身の価値観、経験、フィーリングにあう知恵、あるいは合理性や利益に基づた「ああしたい、こうしたい」ということで動いて行くかもしれない。そのようなことにのみ耳を傾けるような人々が、その船の上の大多数かもしれない。しかしそうであっても、私たちは神から与っている十字架のことば、罪の赦しの救いを、ぜひ絶えることなく伝えていこうではないか。
2、「嵐の中に遣わされている教会、クリスチャン」
ついに大嵐はやってくる(14節)。暴風である。台風のような低気圧に出遭ってしまう。そして暴風に翻弄され、彼等は積荷を捨て始める(18節)。さらに今度は、船具までも捨て始める(19節)。パウロの注意の通りになっていく。積荷や船具は、彼等の財産であり利益である。しかしそのためにこそ、急いで船を出したのに、それを捨てなければいけない。何と言う皮肉だろうか。しかし不完全な人間の計算、経験、価値観、合理性とはこのようなもの。もちろんうまく行くこともあり、それは私たちを助け、利益をもたらす。しかし決して完全ではない。不完全である。そのようなことで、うまく行ったり、うまく行かなかったり、うまく行かなくなると翻弄され、多くのものを捨て失わなければならない。今の経済などにはそのことが見せられる。そしてついには最後の望みまで絶たれようとしている程の危機(20節)。絶体絶命である。しかしパウロは言う。
「皆さん、あなたがたは私の忠告を聞き入れて、クレテを出帆しなかったら、こんな危害や損失を被らなくて済んだのです。」(21節)
パウロは嵐の中にあって絶望している船の上にあっていう。その一つは、「忠告を聞いていれば」、「前もって伝えていたではないか。」と。
A, 「やがて起こることを前もって伝える教会」
私たちが語る神のことばは、これから起こることを前もって伝えることでもある。主なる神は「前もって」の「注意」「警告」を伝えてくださる。つまり主なる神は私たちを「嵐に遭わせるため」「苦しみ合わせるため」「災いにあわせるために」におられるのでは決してない。主はみ言葉を持って、私たちに、そして、世のまだ主を知らない大勢の人々にも、やがて起こることを伝え導いておられる。そして私たち教会はそのためにこそ世に遣わされている。しかし「「注意」や「警告」だと、耳に痛くて、世に毛嫌いされるからと、注意や警告を避ける、伝えない、」というのでは、意味がないだろう。それはむしろこれから起こる嵐を伝えていない不親切な態度のようなものではないか。聞かない。だからこそ、それでも、伝え続ける。律法と福音の宣言をして行くのが教会。「主はどこまでも私たち、すべての人の、今、そして、未来の祝福と幸いを願うからこそ、この聖書のことばを与え、聞くように、悔い改めて、信じるように教えている」と。私たちは「前もって」語る者としても召されている。これから起こることは、主によって告げられている通りに必ず起こる。イエスがいうように、十字架の福音を、罪の赦しを、信じない者は罪に定められる(マルコ16章16節)。そのことを伝えなければいけない。私たちは十字架や復活のことではなく、ただ人を集めるためだけに、人生の対症療法的な一時の癒しや、あるいは、ただポジティブな成功や繁栄を伝えるために、遣わされているのではない。教会もクリスチャンも、イエス・キリストの十字架と復活に立って、聖書のみ言葉から、これから起こることを、前もって伝える預言者でもあるのである。
B, 「しかしそれは脅しのことばではない。〜ここに救いがあると証しする教会」
第二に、だからといってそれは「脅しのことばとして」ではないことに注意したい。パウロは続ける。
「しかし、今、お勧めします。元気を出しなさい。あなたがたのうち、いのちを失う者は一人もありません。失われるのは船だけです。」(22節)
私たちの伝えることばは脅しであってはならない。私たちはどこまでも世にあって励ますもの。それは「主が救ってくださる」と。事実パウロはこの励ましを、彼自身の自信とか経験によって励ましてはいない。パウロは言う。
「昨夜、私の主で、私の仕えている神の御使いが、私の前に立って、こう言いました。「恐れてはいけません。パウロ。あなたは必ずカイザルの前に立ちます。そして神はあなたと同船している人々をみな、あなたにお与えになったのです。ですから、皆さん。元気を出しなさい。すべて私に告げられたとおりになると、私は神によって信じています。私たちは必ず、どこかの島に打ち上げられます。」」(23〜26節)
パウロは、「神のゆえに、神によって信じている」と言っている。「御使い」というのは「メッセンジャー」であり神のことばを伝える使者。ゆえに御使い自身のことばではなく神のことばを携えてパウロに伝えているので、それはパウロにとってはまさしく神のことばである。パウロはここで励ますが、どこまでもその神の約束のゆえに、「神のことばに従って」、人々を励ましていることが見ることができる。神がこう言っているから、「元気を出しなさい。」「救われます。」と。それは気休めでも、パウロの単なる自信でもない。「主のゆえに。主によって、そう信じている。全て主が言われた通りになる。」とあるのである。嵐の中の世にあって、絶望している世にあって、希望を失っている世にあって、私たちはやはり、主のことばによって、世を励ますのである。それは主にあって「元気を出しなさい」、主にあって「救われます」と。そして主にあって「私たちはこの救い主を信じます」と告白して行くのである。その私たちの希望に溢れた信仰の告白も、世を励ますために必ず用いられるから。昨年も、今年も、嵐の中にある私たちの日本。豊かさを経験し、今や豊かさ、「消費」という価値で判断、行動していこうとする風潮、そして個人主義と放縦が支持されている。それにそぐわないような「古い神」はいらないという考えは増え、無神論者が増えている。無神論ではなくても、「自分の利益と価値にあうような「商品」としての神と信仰」を人々は尚も求めて行くことだろう。そしてますます聖書に人々は聞かないかもしれない。教会もそのことに流されて行くか、流されなくても、翻弄されることが今後もある。しかしそんな嵐の中にあっても、そうであったとしても、私たちがなすべきこと、し続けることは、まず何より、その神と神のことばをどこまでも信じていくこと。私たちが信ぜずして誰が信じるだろうか。そしてその神のことばを信じ、「律法」と「福音」の宣言者として、神のことばを、罪の赦し、十字架のことばを、伝えて行くことによって、「ここに救いがある。私たちは信じます。神にあって元気を出しなさい」と語り続けて行きたい。何度も言う。罪深い私たちは救いのこと、神の国のことについて全く無力である。しかし、私たちが十字架で死んで、十字架と復活の主が私たちのうちに生き、働き、主が用いてくださるからこそ、私たちがある。ゆえにどこまでも私たちが自分たちのことばや、自分たちのフィーリングで作り替えたことばではなく、主のみことばが正しく語られる時にこそ、主はそこに必ず働かれ、私たちの思いや計画や願望を超えて働いてくださっているし、私たちを用いてくださるだろう。「この古くさい昔ながらの十字架とか耳の痛い、罪とか罪の赦しとか伝えて何になろう。もっと人々のニーズに答えた、ポジティブでフィーリングに訴える、聞きたい、耳に優しいことでないと人々は聞かない」と、牧師先生さえそのようにいう。ーしかし、それでは「私たちの」「人間の」ことばであり、人間の力しかない。そして人間的な結果しか産まない。そうではない。主のことばこそ生きており、主のことばにこそ、主は働かれる。私たちの思いを遥かに超えて。そのことこそを、信じて、宝である光である、希望である、律法と福音の神のことば、十字架のことば、いのちのことばを、これからも、語り続けていこうではないか。
3、「嵐の中で祈れる教会、クリスチャン」
状況はそれでも好転しない。尚も嵐、戦いは続く。30節では水夫達が逃げようとしたことが書かれている。なんと初め百人隊長が信用していた水夫たちはこの有様。順調なときは信用に足るが、その逆、窮地や逆境にあっては、まず自分が一番大事。人とはこうなのである。そして不完全なものへの信頼とはこのようなもの。しかしそこでパウロは食事をとることを勧め(33〜34節)、
「こう言って、彼はパンを取り、一同の前で神に感謝をささげてから、それを裂いて食べ始めた。」(35節)
パウロはパンを取り、神に感謝した。祈ったのである。この状況であっても神に感謝することができ、希望を持って祈れるのは私たち。どんな状況でも、まことの神への信仰と希望を持って祈れる。これは私たちの特権である。それは自分のためでもあり、そして、人のために、「人とともに」である。嵐の中にあって祈れる幸い。人のために人とともに祈れる幸い。私たちはそのことに与っている。祈りは牧師だけの特権ではない。クリスチャン一人一人に与えられている特権であり力。牧師だけの祈りに力と効力があるかのように考えがちだが、しかしそれは聖霊に対して失礼なこと。クリスチャン一人一人の祈りに力がある。もちろん一人でも力があるし、まして「二人が、どんなことでも地上で心一つにして祈るなら天におられる父はそれをかなえてくださいます。二人でも三人でもわたしの名において集まるところには、わたしもその中にいるからです。」(マタイ18章19〜20節)とも主は勧めてもいる。クリスチャン一人一人が人のために、人とともに祈ることに召されている。もちろんパウロが与えたパンによっても人々は元気を与えられたが、ここにはやはりともに主の御名によって、祈った、そのことによっても、人々は元気を与えられている。私自身もこれからも祈って行く。一人ででも、皆さんと一緒にでも。ぜひともに祈ろう。それに加えこれから尚も、皆さん一人一人も、兄弟姉妹同士で、互いにどんな時でも、頭と頭、心と心を、主の前に会わせて、ともに祈っていこう。そしてクリスチャン同士だけではない。パウロがこの時したように、クリスチャンでない隣人とも一緒に、ともに、その人のために、祈って行こう。そのためにも私たちは召されているし、そのことによって、主がそこに働き、必ずその人を慰め、励ますことへと導かれる恵みがある。
4、「終わりに:新しい一年も教会は」
その後も嵐は続くが、しかしパウロを通して与えられた主のことばの通りに、彼等は皆無事に陸に上がりました(44節)。パウロは、この嵐の中、船の上で、用いられた。パウロを通して、人々は闇の中を導かれ、この上陸という恵みがある。私たちもこの罪という嵐の中、闇の中に、遣わされている教会でありクリスチャンである。「主が」召し、「主が」遣わしてくださった。「主が」用いてくださる。私たちは今年も、変わることなく、キリストにあって死に、キリストにあって生かされて行くもの。十字架のことばをしっかりと握って、そこに立って、律法と福音の宣言者として、神の宣教、恵みの宣教に、与らせていただこう。