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2012年1月8日

あなたの父と母を敬え

出エジプト記20章12節

説教者:田口聖牧師

1、「人と人との間の戒めの前提」

これまで見てきた第一戒から、第三戒までは、「神と人間との間の戒め」を伝えていた。この第四戒から、第十戒までは「人と人との間の戒め」を伝える。「戒め」「人と人との間、関係」ということばから「道徳」の学び、命令であるようなイメージを持つかもしれない。しかしこの第四戒を見て行く時も、十戒の大前提、土台は変わらない。

「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。」(出エジプト20章2節)

神はまず宣言する。何より主なる神こそ、ご自身こそがあなたがたを救ったと。それが先にあると。つまり私たちにとってはまず神が私たちを救ってくださった。そのこと。この2節の神の宣言は、神の恵み、神による救いが、まず先にあってこその私たちである。そして、神の恵みが先にあってこそこの十戒もある。そのことを伝えている。ゆえに「あなたの父と母を敬いなさい」というこの戒め。私たちは一見し「これは人間社会にとって当たり前のことであろう」と思う。しかしながらそのように単に「人間にとって当たり前のことだから」という理解でこの戒めを見て行くならば、この戒めは単なる道徳にすぎないものとなってしまう。そうではない。この第四戒においても、どこまでも主の恵み、主の救いが先にある。どこまでも「主にあって」私たちが存在する。だからこそ、その「私たちを救った主にあって」、この戒めに向きあっていくのが私たちがして行くことに他ならない。ルターは小教理問答書で第四戒をこう答える。

問:「これはどんな意味ですか?」

答:「これは、私たちは神を恐れ、愛すべきなので、両親や上に立つ人々を蔑んだり、怒らせたりせず、むしろ彼らを敬い、仕え、従い、そして尊敬することを、意味します。」

注目したいのは最初の言葉。ルターは「私たちは神を恐れ、愛すべきなので」とここでもこの言葉をもって戒めをとらえている。これは「まず神が救ってくださった。その神によって救われた私たちが、神の恵みと愛を覚えるからこそ私たちは神を畏れ愛する」ということ。このことのゆえに両親や上の人を敬い、尊敬し、愛しなさいと教えているのが第四戒である。

 

2、「「主にあって」父母を敬う」

この戒めは「人として当たり前のこと」とまず私たちは見る。しかし「当たり前のこととみるなら、それは単なる道徳律になる」とも述べた。この戒めは世にあっても確かに人としての「当たり前の道徳」にはなっているが、しかし「すべての人にとって容易にできることであり、当たり前のことであるか?」と問うならば、すべての人にとってそうではない現実もある。人はみな不完全であり、親子の関係も、罪人と罪人との関係であり、不完全である。現代においても、全ての家族が平和ではない。事実、様々な生い立ちによって「父を愛せない、敬えない」「母を愛せない、敬えない」むしろ「憎しみさえ湧いてくる」という人さえ現実いる。両親に捨てられた。もの凄い虐待を受けた。裏切られた。そのような経験を負ってしまった人にとっては、愛したくても愛せない。愛情と憎しみが複雑に交差して、その矛盾と葛藤に苦しんでいる人は何と多いことか。ゆえに聖書の十戒が、単なる道徳として与えられているのであるなら、そのような人々にとっては、まさにこの第四戒は躓きになるだろう。この十戒、そしてこの当たり前の道徳のように見える、第四戒も、これは単なる道徳律ではない。どこまでもこれは主の恵みが、救いが先にある。その先にある主の恵みによって救われて存在している私達。その私たちは何より先に父と母を愛するのではなく、「何より先に、その救ってくださった神様を恐れ、愛するべきであり、愛するがゆえの」その神様からの命令。言葉。そして約束がこの戒めである。この戒めは「主にあって」こそ従うもの。つまり、私たち云々、私たちがどうこうではないし、両親云々、どうこうも、全く関係ない。私たちにどんな理由、原因があっても、あるいは両親が、どんな人達で、どんな欠点があり、どんな悪い親であっても、それ云々ではない。これは私たちを救ってくださった、私たちの救い主である主が命じている言葉だから、その主を私たちは恐れ、愛する存在だから、従うのである。ゆえにこれは「みことば」「恵み」「神の愛」への応答でもある。その恵みの主、私の救いの主がこう言っている。だから従う。そのような応答である。

 

3、「みことばへの応答としての「主あって従う」には主の助けがある。」

もちろん、そうであっても決して簡単なことではない。しかし「主にあって従う」ということには必ず光、希望がある。確かに私たち自身の力によっては難しいことであっても「主にあって、みことばが先にあって」ということには、それは「自分でどうする」ではなく「主に祈り求めて行く」ということでもあり、「み言葉にあって、主にあって」ということは「キリストが私たちのうちに生きてくださっている」ということだから、ともにいてくださっているイエス、聖霊の助けと働きが必ずあってのことであることを忘れてはいけない。「主にあって」「主のみことばにあって」には、私たちのうちに生ける主の恵みが豊かにあって私たちは導かれて行くということがある。「主が命じているからこそ、主が助けてくださる。」ということでもある。ゆえに主にあって、主が命じていることに従うというのは、自らの力によるのとは全く違う次元である。このみ言葉、この戒めに、躓きそうな人がいるだろうか?決して躓く必要はない。主が与えてくださった命令。だから主が助けてくださる。ぜひ、主にあって、この戒めを聞き、主にあって、この戒めに従って行けるように、主に祈り求めて行こう。

 

4、「なぜ父母を「敬う」のか?」

「敬う」とあるが、それは愛するということ以上のこと。ルターは「敬う」というのは、ただ「愛する」だけでなく、「そこに隠れている権威に対して礼節、謙譲、畏敬の礼を含んでいる」(p43、大教理問答書(福山四郎訳、ルター分冊2、聖文舎)と言う。隣人愛では「愛しなさい」と言う言葉だが、父母には「敬いなさい」である。それは父母が特別な存在であることを示しているが、では、なぜ、父と母を敬うように、主は言われているのか?小教理問答書の解説(エリック・ポントビダン編、ファイスアンドフェローシップ(米国ルーテル同胞教会出版部)出版)ではこのように教えられている。

問59「なぜ、あなたは父と母を敬わなければなりませんか。」

答え:「神が、私の肉体的、感情的、そして霊的なことの世話をするために、私を両親に委ねたので、私は父と母を敬わなければなりません。」

どういう父母であれ、主は父と母に、権威を与えた。そして、主がそれぞれの両親に、私たちの命を託したのは事実。私たちはそれぞれの両親から産まれてきた。その両親から産まれたからこそ私達は今生きており、いのちがある。ただ産まれた後、放置されたのであれば生きてはいない。たとえ父母が不完全な存在であっても、胎の中で育まれ、産みの苦しみがあるから、そしてその後たとえどんな不十分さがあっても、育てられて来たからこそ今がある。確かに今の社会の、様々な酷い出来事は忌むべき事態。小さな命がいとも簡単に親の都合によって奪われて行く。悲しむべき状態だが、まさに自分の命の父である神を忘れ、神の御心に背を向けて、自分勝手に生きる生き方を謳歌している人間の一つの結果。罪の結果にほかならない。神はその親を選んで、大事な子を、いのちを、託しているのに。そのような悲しい現実も確かに見るが、しかし私たちはそうならなかった。今ここにある。それはたとえどんな両親であっても、不完全な両親であっても、その両親があってこそでもある。そして大事なことは、その前に主がそれぞれの父母を選んで、私たちをその両親に託したということ。そこには主の御心がある。色々なことがあったかもしれない。それは両親も罪人ゆえに。しかしそのことがあっても主にあっては決して今、無駄なこととは何一つなっていかない。父母どうこうではなく「主にあって」。主がその父母に自分の命を託した。そして私たちは生まれ、今がある。さらには色々な試練を通ったとしても救われた。いやその試練があったからこそ今の救いがある。やはり「主にあって」、主の御心のゆえにこそ、主が与えた権威、両親を敬うのである。ルターは両親だけでなく、「上にたつ人」とも答えている。両親が世を去ってしまった人にとってもこの戒めは、無関係なものではないことも教えられている。事実パウロはエペソ書などでは、奴隷に、主人に従うように、上のものに従うようにとあるように、ルターの言っていることは決して聖書に矛盾していない。パウロは「権威はすべて神によって立てられた」(ローマ13章1節)とも言っている。そこでも「主にあって」「従う」ことを教える。

 

5、「もっとも近い隣人」

更なる一面がある。主が人と人の間において、まずこの「父と母」を取り上げていることには、それは父と母こそ、人と人との関係においてもっとも「身近で、もっとも大切で崇高な」隣人、いや隣人以上の存在であるということ。ルターは、両親を敬うことはいかなる隣人愛にもまさる戒めであるともいう(p50、大教理問答書)。自分以外の人は隣人とするなら、父と母はまさに一番近い隣人。もちろん父と母に取っては、子供は一番近い、隣人。「隣人を愛しなさい」と言っている時家族を当然、除外はしない。むしろ家族も隣人、いやそれ以上の特別な、何にも勝って大事な存在ではないか。ゆえにこの「父と母を敬いなさい」とというのは、それはこの人と人との間の戒め、命令の第一戒になる。ある意味、隣人愛の中の隣人愛。人と人と間にある愛の最も大事な基本であるといえよう。その特別な存在とされている父と母を敬うと言うことに勝る隣人愛はない。どんなに素晴らしい隣人愛や慈善をしても、この父と母を敬うことが疎かにされているなら空しい。人と人の間の戒めの、一番最初に来るこの戒め。人間関係の基本。これは親の子供に対する関係でも学びうる。事実、パウロは、エペソ6章でこの戒めを勧める。

「子供達よ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことだからです。「あなたの父と母を敬え。」これは第一の戒めであり、約束を伴ったものです。すなわち、「そうひたら、あなたは幸せになり、地上で長生きする」という約束です。父達よ。あなたがたも、子供を怒らせてはいけません。帰って、主の教育と訓戒によって育てなさい。」(エペソ6章1〜4節)

パウロは子達に父と母を敬うことを勧めたのち、「父達よ」と言って、子供との、子供に対する関係のことも、第四戒と並べて勧めているのは注目すべきこと。父と母がもっとも近い隣人、隣人以上であるなら、父と母にとって子供はもっとも近い、もっとも大事な隣人、隣人以上ということ。そのもっとも大事な人と人の間のこととしてこの「戒め」が与えられているということも実に意味深い。父母を愛し敬うということは家族の基本であり、それは自分たちの子供達にも向いて行く。神は、御心のうちに私達に備えてくださっている家族を、主にあって大事に、愛し、違うに敬うべき、最も大事な隣人、存在として、それぞれの隣に置いてくださっている。そのことを覚えさせられるし、その家族を「主のあって」愛すること、「主にあって」教えること、主にあって、家族のために祈ることが、すべての人間関係の基本であることを教えられる。昨年は隣人愛が取り上げらた年。隣人愛は主の命令、素晴らしいこと。その隣人愛のゆえに多くの人が助けられた。しかし反面その隣人愛は、悲しいことにある教団や教会においては「している、していない。」「してくれる。してくれない」がとりあげられ、なんと、隣人愛の先に「裁き合い」が起こっているとも聞く。それは悲しむべきこと。本当の「主にあっての「隣人愛」」は、裁き合いは産まれない。裁き合いとは無縁。なぜなら隣人愛はその人にするが、しかし、どこまでも「信仰による」「善き業」ゆえに、一人一人が主にあって主に対して喜んでささげるものであり、主あって報われるもの。そのような中で、なぜか、他者との比較で、消極的な人を裁く風潮が出る。そして多くのクリスチャンが、そのようなことのゆえに、これも他者との比較で、自分は何も立派な隣人愛ができないと自分を責めて苦しんでいるともいわれている。確かに主にあって、できるように求める思いは大切で、主との関係で「できない」という認識や悔い改めは、ある意味健全ではあるが、しかし問題は「他と比べて」のその認識や劣等感であるなら決して健全ではない。どこまでも「主にあって」である。そして更に大事なことを今日は教えられる。それは最も大事な隣人に目を向け、主にあって、この父と母を敬い、あるいは子供を、愛するということ。私たちはそれによって主にあって大事な隣人を愛し、敬っている。それは人はそんなこと当たり前というでしょう。立派な隣人愛や慈善と比べるならば、誰も見てもいないし、誰も評価しないことかもしれません。しかしそれは主にあっては、もっとも大事な人と人の間の戒めであり愛であろう?主にあってこの小さいけれど、最も大事なことがなされるなら、主は確かに喜んでくださり、そしてそのことによって、主は主の祝福を、それぞれに与えてくださる。12節の後半「あなたの神、主が与えようとしておられる地で、あなたの齢が長くなるためである。」。エペソ書6章でも、パウロは「 これは第一の戒めであり、約束を伴ったものです。すなわち、「そうひたら、あなたは幸せになり、地上で長生きする」という約束です。」と、「約束を伴ったものです」とも言っている。この人と人の関係の最初の戒め、第一の戒め、そこには主の祝福の約束までも伴っている大事な特別な戒めであることがわかる。

 

6、「罪あることでも従うべきか?」

この戒めは単なる「道徳」ではない。私たちを救ってくださった恵みの主が大事だと考え、主が与えている御心だから「全ては主にあって」従うべき「ことば」であり「約束」である。ゆえに「解説」ではこのような教えも加えられている。

問62:「罪あることでもあなたは両親や他の人々に従うべきですか。」

答え:「いいえ。そのような場合、私は人より神に従うべきです。」

この戒めが単なる道徳ではないこと、すべては「主にあって」であるということのゆえ。初めにあったように「私たちが主を恐れ、愛すべきなので、敬う、従う」とあった通り。すべては「主にあって」「主のゆえ」であるから、父と母が、もし罪となることを命ずる時、罪あることをさせようとする時、それでも父母に従わなければならないということはこの戒めは意味しない。「主にあって」ゆえに、人に従うより主に従う。使徒の働き5章で大祭司がイエスの弟子達に「キリストの名によって教えてはいけないといったではないか」と戒める。その時ペテロ達は上の権威である大祭司のその間違った命令に従わずにいう。「ペテロを始め、使徒達は答えて言った。「人に従うより、神に従うべきです。」」(使徒の働き5章29節)。私たちはどこまでも「主にあって」、「主のみ言葉のゆえに」、父と母、上にたつ人に従う。それは何より「主に従う」から。罪あることでは両親や上に立つ人々にしたがうことはできない。主に従うから。だからといってそれは「両親や上にたつ人々と断絶し、憎みなさい」ということを聖書は言っているのではない。私たちは罪あることには従えないけれども罪人の悔い改めと救いを求め祈るためにこそ召されているもの。その父母や、上に立つ人々を罪を強いたからと憎み断絶するのではなく、その彼らの、悔い改めと、救いのために祈るということほど、素晴らしい愛情はない。そのように祈ることによって、それは父と母を主にあって敬っている。父母、そして上にたつ人々のために祈れる幸い。恵み。特権。ぜひ、祈って行こう。

 

7、「終わりに:律法によっては」

私たちは、それでも、この戒めを完全に守れるものではない。当たり前のようにできる、していると思っているようでも、そうではないもの。愛している父母に対してさえ、一緒にいると、自分の自己中心さが出て来て後で後悔する。私自身を思えば、これまでそのようなものであってし今もそのようなもの。律法に対してどこまでも不完全な私たち。律法を行うことによっては決して救われない私たち。その現実にやはり立ち返らされる。この戒めを完全に果たせない存在。しかしだからこそイエス・キリスト、その十字架と復活による罪の赦し、救いが必要であった。だからこそ私たちは今なおも、日々十字架でキリストともに死に、キリストが私たちのうちに生きてくださることによって生きるものである。そのことへ立ち返らされる。どこまでもこの私たちのうちに生きておられるキリストを信じ、キリストの祈り求めて行く、キリストに全てを信頼し、委ねていくそのような私たち。この戒めに与っている幸いを覚えつつ、どこまでも、私たちを救ってくださった主に、求め、信頼しながら、委ねながら、主にあって、歩み続けて行こう。

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