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2012年1月15日

第350号 「宣教の「境」」

執筆:田口聖牧師

「わたしはキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」                      ガラテヤ人への手紙2章20節

 

現在、私はシュルツという先生が書いた「Mission from the Cross~the Lutheran theology of mission」(Klaus Detlev Schulz)という本を読んでいます。新しいこの年を迎えるとき、その中から、教えられることがありました。それは、「境界線を越えた宣教」というテーマのところからでした。宣教には二つの宣教の「境(border: 境界線、領域)」(p24〜25)があります。一つは、地理的、文化的境界線。もう一つは霊的な境界線です。前者は、福音、洗礼の必要な、クリスチャン信仰の外への宣教です。私達はこの2012年もこの境界線を越えて、外へ、まだ福音を知らない人々へ、イエス・キリストの十字架と復活の福音を証しするために遣わしてくださいと祈っていきましょう。

そして、もう一つの「境」、それは、霊的な「境」であるとシュルツ師はいいます。それは、教会の外、クリスチャン信仰の外だけではないといいます。それはむしろ、教会の中、私自身をも含みます。シュルツ氏はいいます。「事実、私達は、クリスチャンの教会の中に、多かれ少なかれ、様々なかたちの”異端”が存在している事実をしるべきである」と。ルター自身、「異端」と言うとき、キリスト教会の内側に広がっている異端の事を指していたといいます。それはクリスチャンはいつでも偶像礼拝や迷信。間違った安全・安心により頼みやすいものであることに、注意を促していたといいます。私達(クリスチャン,教会)はいつでもサタンによる悪、罪への誘惑、攻撃にさらされているものであり、私達の歩みはいつでもサタンとの戦いですから、ルターにとって「宣教」の枠組み、まさに境界線、領域は、クリスチャンのコミュニティーのうちにある(私達のうちにある)、つまり、”異端”、間違った信仰、間違った教え、間違った中心にさらされている私達も宣教の領域として捉えていたというのです。

ですから、シュルツ師はいいます。宣教とは、律法と福音の宣言を、もちろん

まだ伝えられていない土地の人々へ。それだけでなく、全てのクリスチャン自身も、その外側へ発せられる律法と福音の宣言と同じ、神の恵みを「受けるもの」であると。教会は私達自身の中にも罪と異端的な教えや信仰があり、その障害があり得ることを知る事、そしてそれは、罪の赦しと福音の豊かさを説教することによって打ち勝つ事を求める必要があると。シェラーという宣教学者はいいます。

「教会の働きとしての宣教は、信仰と不信仰の間の境界線において、イエス・キリストの救いの福音を証しし続ける特別な意図を意味している。」(p37, “Gospel, Church, and Kingdom”, by James A. Scherer, Augsburug)

私は宣教にある、この二つの領域の相互関係も教えられます。宣教は「知っている私達が、知らない人へ、外へ」だけでは不十分であろう。もし私達が自分たちが尚も「義人である同時に罪人」であることを忘れ、自らも、毎週、律法と福音の宣言によって宣教されるものであり、罪の赦しと福音の豊かさによって教えられ、私達のうちに住んでくださっているキリストによって生き生かされているものでないなら、知らない人へ何を、何のために、何によって伝えるかを、全く見失った宣教になってしまうでしょう。人を集める事や、ただの達成感や、義務感が知らず知らず目的になったり、動機になってしまい、それは宣教(伝道)ではありません。私達は、義人であり同時に罪人。日々、サタンの攻撃、誘惑を受けるものであり、それは軽く見る事ができないどころか、私達の歩みは日々、その攻撃との戦いです。しかしそれはキリストにあってこその勝利の歩みです。ですから、私達は、日々、キリストの十字架によって死んで、キリストがによって新しく産まれ、新しく生かされているものです。私達にとっても、いつでも律法と福音の宣言が必要なのです。私達はまさに「外に」、宣教に遣わされている恵みがあるのと同時に、私達自身も(説教者である私自身も)、日々、キリストの律法と福音の宣言によって、宣教されるものなのです。私達も宣教の言葉を受けるものなのです。

ですから、礼拝につどい、み言葉に聞く事、聖餐に与る事は幸いであり、私達に取って必要なことです。律法と福音のみ言葉の説教によって教えられ、みことばと聖霊によって聖められることによってこそ、外へ、世にあっての、キリストの証人としての歩みがあり、宣教(伝道)もあるのです。ぜひ、新しい年も、礼拝につどい、恵みの手段である、み言葉の説教、聖餐に与る事を大事にしていきましょう。そしてキリストの復活の証し人として、宣教の恵みに与って行きましょう。

 

参考図書:

○ “Mission from the Cross ~ The Lutheran Theology of Mission”, Klaus Detlev Schulz, Concordia Publishing House, 2009

○ “Gospel, Church, and Kingdom”, James.A Scherer, Augsburg Publishing House,1987)

 

 

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