さあ人を造ろう (はじめてのひとのための賛美礼拝)
創世記1章24〜31節
1、「はじめに」
私達人間は、どのような存在なのだろうか?「人」とは何ものなのだろうか?人間が遥か昔から、長い間、追い求めてきた疑問。ここは教会なので聖書が伝える「人」、つまり、神は人についてどのように教えているか紹介したい。
2、「人のはじめ」
「神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地の全てのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」(創世記1章26節)
聖書は、天と地、つまり、この世界を、神が造ったと教える。それは、偶然が何度も重なった奇跡が、世界、いのちの初めということではない。聖書はそうではなく、神が全てを創造された。すべてのものは神からきている、命も神から来て存在していると伝えている。ゆえに「人」という存在、私達も、神が造って、命を与えた存在。神によって創造された。私達人間は、神から、神によって存在するようになった。これが「人」「私達」の存在について、聖書の伝える最初の出発点。
3、「さあ人を造ろう」
ではどのように神は人を造られたのか。どのように存在させたのか。
「神は仰せられた。「さあ人を造ろう」」
まず第一に、「人」のはじめには、「神のことばと思い」がある。「さあ、人を造ろう」と。この世界を創造された、聖書の神は、心、思い、意思がある方。神は「さあ、人を造ろう」ーそのように思って、「人」という、命あるものの創造を始められている。神の心がそこにあるし分かる。「手作りもの」に私達は何か特別なものを感じる。それは造った人の心をそこに感じるから。機械的にただ造られて捨てられて行くものは、毎日、何万と造られている。現代の使い捨ての消費社会にそのようなものは溢れ、それらにあまり気にも留めないでただ使っては捨てる毎日がある。中には、価値のあるようなものさえ、そのように扱われて行く昨今。しかし手作りで心のこもったものをそのように扱う事はできない。我が家では私と家内の誕生日に、子供達は何か買ったりはできないので、手作りのカードを作ってくれる。売っているような立派なものではなく子供が書いたり、貼付けたりのまさに手で造ったカード。けれども、それは何にも勝って価値を感じるもの。それはそこに心があるから、思いがあり、愛があるから。それは特別である。心がある創作品には、特別な価値がある。人間もそのような存在。神の心が、私達の存在の初めにはしっかりとあるから。それが聖書にはっきりを書かれているから。「さあ、人を造ろう」と。だから特別な価値がある。
4、「その思いは祝福」
「さあ、人を造ろう」ーその思いについて、聖書はもっと詳しく書いて伝えている。28節の最初に神の私達人間への思いが書かれている。
「神は彼らを祝福された」
31節にもこうある。
「神はお造りになったすべてのものを見られた。見よ。それは非常に良かった。」
「さあ、人と造ろう」ー この神の思い。まずその思いは、決して悪い心、思いではない。憎みや怒りや邪悪さ、悪意もまるでない。むしろその逆。「祝福された」、そして、「非常に良かった」ー それが神の思いである。それは愛情。ご自身が造ったものを愛おしみ、慈しむ思い、そして、その祝福を願い、祝福される。神の私達への思いは、愛と祝福なのである。神の愛と祝福の思い、心が、人間の、私達の存在のはじめにはあった。なぜ命は大事なのか?なぜ殺してはいけないのか?その理由を、聖書はここにはっきりと記す。「私達はいったい存在する意味などあるのだろうか?」とある人はいう。「自分に何の価値があるだろう」ともまたある人は疑問を投げかける。多くの人は、それは誰か、他の人と比べることによって、あるいは社会の価値という「はかり」で、そのような事を決めつけいったりする。そのように質問を投げかけられたほうも、そのような「はかり」で答えようとする。しかしそのような「はかり」で、答えを出す事がどれだけ難しいだろうか?とても難しいこと。しかし、結局、そのような人と比べたり、社会の「はかり」で、「自分の命には価値がない。存在に意味がない」と安易な答えを出してしまう。確かにその「はかり」では正当性があるかもしれない。しかし価値のない命がこの世に存在するという、矛盾のある答えともなっている。人と比べる事、あるいは狭い社会の価値観。それらは一時の即効性のある、矛盾だらけの答えを与える事ができても本当の答えを与える事ができない。けれども、聖書はそうではない。いのちの価値、意味についての、聖書の根拠は、人そのものにはない。人と人との比較にもない。その狭い文化や社会における価値観や評価も全く関係ない。神が心をもって創造し、神が祝福したから、非常に良かったと思ったからこそ、人の命は尊いし、価値があるし、存在の意義がある。損なわれていい命などない。そのような存在が私達である。
5、「関係としての人」
「われわれのかたちとして、われわれに似せて。」
「神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼を創造された。」(創世記1章27節)
「神のかたちとして」ー 「人」、それは、神のかたちとしての「人」。神のかたち、そして「われわれ」とある。これは色々議論や解釈があるが、神が何人もいる事をいっているのではない。神は一人である。聖書では、父と子と聖霊の神、いわゆる、三位一体の神を伝える。そして「神のかたち」というのは、その父と子と聖霊の神の結びつき、関係をさしているとも言われる。ゆえに「神のかたちとして、男と女とに人を創造された」と、男と女、人と人、やはり「関係」を指している。「人」、それは「関係」ー 人というのは、一人で存在するものではなくて、人と人との関係における存在である。しかも動物を見ても、オスとメスにわかれているが、神は、動物に対しては「神のかたちとして」とは言っていない。人は「神のかたちとして」。ー それは人と人との関係で、しかも、神と同じように心があたえられている。人と人の関係、それは心と心の関係でもあり、心の交わりとしての関係までもあたえられている。それが人という存在である。人と人の関係。これも、神が私達にあたえてくださっているもの。そして男と女とあるが、何よりそれは「妻」を前提としている。ゆえに結婚というのは、この創造のときまでも遡って根拠があるもので、神聖で、特別なものである事がわかる。そしてその男と女の関係を基本として、隣人との関係があり、社会がある。男に対して女が、女に対して男が、神によってあたえられた特別な関係であり、その土台のもとに家族、隣人、社会が築かれて行く。そこにも神の創造の思いがある。人は、人と人との関係である。人との関係における存在、それが人である。ゆえに自分にとって相手は、それが妻であっても、他人であっても、相手も、自分がそうであるように、神のかたちであり、神の創造された命であり、そこには神の心と祝福がある。相手もそのような存在なのである。神が備えた、この人と人の関係というのは、そのように本来は、神にあっての祝福の関係。私達と兄弟姉妹、隣人は、神にあっては、みな祝福の存在として創造されている。人間、私達の存在には、元々はそのようなとても崇高な、意義と意味があることを教えられる。
6、「全人類」
さらにはこの今日の創世記の記録には民族性はない。まさに全人類のはじめとして書かれている。つまりこの神の心、思いも、愛も、祝福も、それは特定の民族や国民の初めとして聖書は伝えているのではない。全ての人類の初め。ゆえにそれは誰も例外無く、全ての人々が互いに神にあって祝福の存在だということ。クリスチャン同士はもちろん互いがそのような存在。しかしそれだけでないクリスチャンでない人との関係においても、やはりそのような存在である。
7、「本当の人間のすがた」
人とは何なのか?私達はどのような存在か?聖書は人とは神によって創造された祝福の存在であると教える。神の私達への思いはどこまでもこの祝福。そしてこの「神の愛のもとに、神に愛され、神を愛する。」ーこれが創造されたときのままの、本当の人間の姿である。しかしまさにその本当の人間の姿が損なわれている、失われてしまっているのが、人の現実。確かに人は皆、神を知らないものとして産まれる。信じられないという。そのように人は教えられなければ、いや、教えられても、神を否定し、いないといい、必要ないというもの。人はそのように創造された時にそこにいた神に、そこにいつもあった神の愛、言葉、心に、背をむけて、離れて行った存在なのである。聖書も、教会も、確かに人間の罪と言う事を伝えるが、聖書のいう罪というのは、何より、そのこと、この「神の愛のもとに、神に愛され、神を愛していたもの」が、神を必要ないと否定し、神に背を向け、離れて行っている事こそ、聖書の伝える罪の意味である。創造の時のままの本当の人間の姿、神との関係が、損なわれている状態こそ、罪の状態、私達の現実なのである。
8、「救いーそれは回復」
最も大事なこと。それは聖書が私達人類に伝えたいことは、その状態から回復すること(神によって、罪の赦しをうけること/義と認められること)こそ救いであるということ。この創造された時の、本当の人間の姿、神に愛され、神を愛する、その関係、その姿、その神の祝福へと回復される。それが聖書が私達一人一人に伝える救いの招きである。今日のこの箇所は、遥か昔で私達と関係ないことではないし、過去の事ではない。この言葉を通して神は私達にこの本当の人間の姿に帰るように示されている、あなたへの招きの言葉、福音である。その救いの鍵として、私達にあたえられている、その回復を与えてくださるのが、神の御子イエス・キリストである。聖書は私達に、このイエス・キリストをどこまでも伝えて、私達をこの回復へと招いている。
9、「おわりに」
クリスチャンへ。多くの隣人、家族が、その本当の人間の姿、関係が損なわれています。だからこそ私達は尚も、創造と、救い・贖い、聖めの福音を、隣人へ、家族へ、証ししていきましょう。
まだクリスチャンでない皆さんへ。聖書を読んでみませんか?イエス・キリストに出会ってみませんか?イエス・キリストは皆さんを招いています。ぜひ、聖書、そしてイエス・キリストを通して、神に帰り、神の祝福に回復させていただきましょう。