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2012年1月22日

殺してはならない

出エジプト記20章13〜15節

説教者:田口聖牧師

1、「はじめに:無関係な戒めだろうか?」

「殺してはならない」出エジプト記20章13節

「姦淫してはならない」出エジプト記20章14節

「盗んではならない」出エジプト記20章15節

人として当然、当たり前のこととして私たちは理解している。殺人や窃盗は、刑法で刑罰が定められていて、すると犯罪になる。姦淫も不倫などは社会的にも大きな非難がおこる。これらの戒めは犯罪者や非道徳的な人のための戒めであり、それらを当然のようにしない人々とは関係のないことのように思われる戒めかもしれない。しかしこれらの戒めも誰にとっても決して無関係な事として与えられている戒めではない。

 

2、「なぜこれらの戒めが与えられたか?」

まず第一に「この戒めの理由に何があるのか」ということ。なぜこの戒めを神は与えたのか? ー 神は人の現実を見られてこの戒めを与えている。

A, 「人の現実:罪の現実と不幸」

創世記から「人とは?」ということがわかる。神は人を、良いもの、祝福の存在として創造された。神の愛と言葉のもとにあって、神に愛され、神を愛する存在として、人は創造された。しかし人はその神の愛とことばを疑い離れて行った。否定し背を向けて行った(創世記3章)。それが私たちの現実である。その結果、神のことばと愛から離れていった結果として何が起こったか?アダムとエバの息子、カインの殺人が起こった。そしてノアの時代、世の中には「暴虐が満ちていた」(創世記6章13節)とある。神はノアに箱船を造って滅びから救われるように言う。人々は神のことばを信ぜず、暴虐を辞めずに洪水に滅んで行った。そして洪水の水が引いてノアが箱船を出た時、神はいう。

「主はそのなだめの香りを嗅がれ、主は心の中で仰せられた。「わたしは、決して再び人のゆえに、この地を呪うことはすまい。人の心の思い計る事は、はじめから悪であるからだ、わたしは決して再び、わたしがしたように、全ての生き物を討ち滅ぼすことはすまい。」(創世記8章21節)

「人の心の思い計る事は、はじめから悪であるから」ー 神は人の事を良く見ている。神を否定し自ら離れて行った人であるのに、神はその人から目を離されない。そして人がどのようなものであるのかをよく知っておられる。「人の心の重い計る事は、初めからあくである」と。その人間の現実、私たちの現実のゆえに、この戒めもある。ルターは大教理問答書でこのように記す。

「この戒めの「ここにおかれている」理由と必要とは、いかにこの世が邪悪であり、人生に不幸が多いかと言うことを、神がよく承知していたもうところにある。だから、神はこの戒めと、他のもろもろの戒めとを善と悪との間におきたもうたのである。」(P66,大教理問答書、福山四郎訳、ルター分冊2、聖文舎)

私達もこの人間の現実を認めざるを得ない。この世は楽園ではない。世には悪があふれている。殺人も、姦淫も、窃盗もあふれている。そしてそのことの結果は何か?それは、そのことによって被害を受けた人々の人生に不幸、悲しみ、憤り、憎しみが起こる。殺人の被害者にあっては、もう人生がない。命は帰ってこない。そしてその家族に取り返しのつかない深い傷を残す。不倫の結果はどうか?それは相手を不幸にし、自分や相手の家族や子供達をも不幸にし、人生を狂わせる。それが現として人間の社会にはある。人間の歴史は堕落して以来、殺人、姦淫、盗みの歴史であった。戦争もそれは殺人だけではない。土地や資源の奪い合い、「自分のものだ」という自己主張のぶつかり合いが戦争の初めでもあった。未開の地の発見の歴史においても現地住民の土地、財産、生活が奪われている。盗みと同じ。「人の思い計ることははじめから悪である」ー 確かにその歴史を見ることができる。今は豊かさゆえにピンとこないことかもしれない。しかし人と言うのは状況によって、それが窮地となったときに、どういうとっさの判断をとるか分からないし、そのとき「それでも自分は正しくあれるだろうか」と問われるなら、それは誰も自信を持って「イエス」と言えないもの。イエスが弟子達に自分が逮捕された時に皆逃げて行くことを伝え、ペテロが三度否定することを告げられたとき、ペテロも弟子達も他が裏切っても自分は裏切らないとまで言いました(マタイ26:35)が結果はどうであったか。弟子達は逃げペテロは三度知らないと言った。窮地において人はどうとっさに行動するか分からないのである。聖書はいう。

「私たちはみな羊のようにさまよい、おのおの、自分勝手な道に向かって行った」(イザヤ53章6節)

私たちは神に背を向け、おのおの自分勝手な道を行くもの。人間と人間の間には、その各々の利益、欲求のぶつかり合いがある。そして当たり前のような生活や豊かささえ、誰かの不利益の上に、誰かの利益があったりするもの。「人の思い計ることははじめから悪である」「おのおの自分勝手な道に向かって行った」、そして人生には不幸が多い。人間の現実である。

B, 「人と人との間のことのために」

ルターは神はそのことを良く承知している。だからこそ「この戒めが「ここにおかれている」」という。これらの戒めは「人と人との間の戒め」、ゆえに人と人との間に、そのような害や不幸がないこと、そして幸福を願っての戒めでもあることにルターは答えを与えようとする。つまりそれはただ神のための戒めではなく、むしろ人のため、人と人の間の幸福のための戒め。この戒めに違反するとき、その害を受けたものが何より不幸になるが、しかし犯した側も不幸である。人と人との間のための戒め。被害を受ける側だけでなく、してしまう性質をも持っていて、誰がいつその誘惑を受けるかもしれない、その全ての人間の、幸福を考え、これを犯すならまさに結果は不幸である、だからこそ、『〜してへいけない』と、この戒めを与えておられることを教えられる。この小教理の解説の第一問に、「神が私たちについて考えていることは、愛と祝福だ」とあったが、まさにその思いがここにも貫かれていることが見える。ゆえにルターは小教理問答書でこれらの戒めにこう答える。

第五戒:「殺してはならない」

「これはどういう意味ですか」

「これは、私たちは神をおそれ、愛すべきなので、隣人を傷つけたり、困難に合わせたりすることなく、むしろ彼らを助け、すべての必要において友人となることを意味します。」

第六戒:「姦淫してはならない」

「これはどういう意味ですか」

「これは、私たちは神をおそれ、愛すべきなので、言葉と行いにおいて汚れなく、純潔な生活を過ごし、また夫婦は互いに愛し敬うべきであることを意味します。」

第七戒:「盗んではならない」

「これはどういう意味ですか」

「これは私たちは神をおそれ、愛すべきなので、隣人のお金や財産を盗まず、また不正な取引や詐欺によって自分の所有としないことを意味します。そしてむしろ、私たちは隣人の財産や生活するための権利を守り、それらがより良くなるように助けるべきです。」

これらの答えからわかる。人と人との間のための、幸福のためがあるということ。そしてそれは私たちがただ受けるだけでなく、私たちも隣人の幸福のために、ここに「隣人を傷つけたり、困難に合わせたりすることなく、むしろ彼らを助け、すべての必要において友人となる」とか、「助けるべき」とかあるよに、私たちもこの戒めにおいて、その隣人の幸福のために、それがおきないようにもすべきことがあるんだとルターは聖書から示されていることがわかる。

C, 「『隣人愛の戒め』のなかにあるこれらの戒め」

ルターは「殺してはいけない」についてこうも教える。

「第二に、「隣人に対して」悪をなすものだけがこの戒めの違反者ではないということ、すなわち、隣人に善をなすことができ、隣人の身に危難災害の起こらないように未然に防ぎ、保護し、救助することができながら、それをしない人間も同罪であるということである、裸の人に着物を着せてやることができるのに、裸のままで去らせるならば、自分がその人を凍死させたことになる。飢餓に苦しむ人を見て食をあたえないならば、自分がその人を餓死させるのである。同様に、死刑の宣告を受けたとか、あるいはそれに似た危急にひんしている人を見て、救助の手段方策をしりながら、救いの手をさしのべないものは自分がその人を殺したのである。」(同、P69)

何と言うことか?この戒めはこれほどまでも厳格に捉えられている。しかし確かにこれはイエスの教えたことにも沿う。マタイ25章41節以下で、イエス様がされた譬えがある。王が右と左に人々を分けた譬えで、王が左に分けた人々に対して怒りを持って、「お前達はわたしが空腹であったとき、食べるものをくれず、渇いたときにも飲ませず、」と言われた所。そこで王の左にある人々は「自分たちはいつそのようなことをしたのか」と尋ねた時に王は言う。

「おまえたちが、この最も小さいもの達の一人にしなかったのは、わたしにしなかったのです。」25章45節  

と。さらには良きサマリヤ人の譬え(ルカ10章25〜37節)。それは自分は律法に従って、神を愛し隣人も愛していると自認している人に対してイエスが話したたとえ。強盗に襲われ瀕死のユダヤ人。そこに二人の人々が各々通りかかって、その瀕死の彼を見つける。一人はレビ人、一人は祭司。しかし彼らは瀕死の彼を見捨てて帰ってしまう。しかしそこにユダヤ人が蔑むサマリヤ人であるその人はこの瀕死の彼をかわいそうに思い助けた。イエスはこのサマリヤ人こそ正しい隣人であるとしそれを行いなさいといった。このところでいわれている「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という隣人愛の戒めはまさにこの10戒の第4の戒めから第10の戒めまでの「人と人との間の戒め」の要約。ゆえにこの瀕死の彼を助けることができるのに助けなかった二人は、いくら立派なレビ人、祭司であったとしても、本人にはそのような自覚はなくても、「殺してはならない」という戒め、そして隣人愛の戒めに対する罪があることになる。同じようにこの状況、あるいは、ルターが言うような状況で、そのような人が不幸になり瀕死であるのを知っているのに何もしないなら、私たちはこの戒めに対して「罪を犯した」ことになる。 確かにルターの言う通りである。私自身、それができないものであることを思わされる時に、この戒めは決して無関係ではない、むしろこの神の戒め、律法の聖さ、そしてそれに対して私自身の不完全さ、罪深さを思わされ心刺される。さらにはこの「隣人愛の戒め」にはイエスがいわれるように敵さえも含む。事実サマリヤ人はユダヤ人に蔑まれていた人々、サマリヤ人にとっても友好の相手ではなかったけれども、イエスはこのサマリヤ人こそ「隣人だ」とユダヤ人に勧めた。その「隣人を愛する」ということ。「殺してはならない」ということ。それが敵が瀕死の時に、手を差し伸べることが自分にはできるか。これは非常に考えさせられることだろう。

 

3、「戒めの聖さ:ただ行いだけでない。心を見られる神」

そしてこれらの戒めはただ「行い」のことだけではなく「心」のことを当然含んでいる。神は人の心を見られる方であると聖書は教える(第一サムエル16:7、使徒15:8、ローマ8:27、etc)。神は人の心を見て「人の思い計ることは初めから悪である」とも見た。そして「姦淫してはならない」の戒めについては、イエスは「情欲をもって異性をみるなら、心の中で既に姦淫を犯している」(マタイ5章27〜28節)とも言う。このように行いが行いを引き起こすのではない。心が行いを引き起こす。むしろ心にこそ罪があり、心が罪を犯す。ゆえにルターはこう記す。

「(単純な人々に「殺してはならない」とはどういうことであるかをごく明瞭におえしこむために)、この戒めの全要旨を言えば、第一には、まず手もしくは行為をもって誰にも害を加えないこと、次には舌を用いて人を害するようなことを言ったり、勧めたりしないこと、さらには、人を侮辱する恐れのある手段方法はいっさい用いたり、またそれを許容しないこと、そして最後に、誰に対しても敵意を抱かず、また怒りと憎しみの念から災いを願わないこと、従って誰に対しても、霊肉ともに潔白であること、特に、自分に災いを望み、あるいはこれを加えようとする者に対してそうであるべきである、ということである。」(同P68)

霊肉において潔白である。心においても人を殺さない。敵に対しても敵意を抱かず、災いも望まない。そこまでもこの戒めには含まれている。そして私自身の心を探るなら、完全ではない自分の心、この戒めに反している自分の心を認める。私達は全ての人の幸福のために、願い、祈り、そして、この通りに「行っていく」こと、それがこの戒めにおいて勧められていることを教えられる。

 

4、「戒めは罪を示す。そして、十字架へ」

これらの戒めを見てきたが、自分では守っているように思っていることであっても、主の目にあっては、私たちはどこまでも神の聖さにかなわない、戒めを完全に守ることができない、罪深い者であることを教えられるのではないか。私たちはやはり十戒、律法を守ること、行うことに、不完全な者。行いによっては、決して聖とされない、義と認められない、救われない者であった。しかしだからこそ主イエス・キリストの十字架がはっきりと救いとして見えてくる。まさに十字架においてイエスは背いて反抗する罪人である私たちのその痛みを、傷を、罪を負って助け出してくださった。あの良きサマリヤ人のように。十字架でイエスこそが、主を愛し、隣人を愛しなさいという、十戒を、私たちにために完全に行ってくださったことこそこの戒めの先に見える。私たちはただそのイエスの十字架のゆえに、ただ信仰によってのみ、聖と宣言され、義と認められている。その恵みが見える。私達の歩みはその十字架のイエス・キリストにあってこそ今新しい。その新しい歩みの中心は、毎日、罪を告白し、キリストともに十字架で死に、復活のキリストが私たち住んでくださることによって生きる歩みである。そうであってこそ、これらの戒めが罪を示すだけでなく、十字架の先に「私達は神をおそれ、愛すべきなので」となり、この戒めに、信仰によって従っていくべきものとなっていく。

 

5、「おわりに」

これらの戒めは私達とは決して無関係ではない。ここに求められている神の求めは、あまりにも聖い。そう見るとき、私たちは全くもって罪深く、罪に対して無力だが、しかしそこにどこまでも主イエス・キリストを見て、キリストにあってこの戒めを求め、従って行けるように、そして隣人の幸福のために用いられていくようにぜひ祈り求めて行こう。

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